第7回ムジャンマ シリア難民留学生が日本で感じたこと

2016年の伊勢志摩サミットで日本政府は、国際協力機構(JICA)の「技術協力制度」や文部科学省の「国費外国人留学生制度」枠を利用し、5年間で最大150人のシリア人留学生の受け入れることを表明しました。当時、ヨーロッパには100万人を超える難民が押し寄せ、”難民危機”と呼ばれる事態が起こっていました。この受け入れには、シリアの復興を担う人材になってほしいという目標も謳われました。およそ100名のシリア人留学生に対し、大学院などの高等教育の機会を提供するJISR(Japan initiative for the future of Syrian refugees) プログラムがJICAを通して実施されました。

JISRプログラムには、UNHCRから難民認定あるいは、同等と認められたシリア国籍の22〜39歳までの大学卒業資格を持つ者が応募することができます。2017年からの5年間で67人が来日し、昨年末までに39名が卒業を果たし、そのうち34名は日本で就職しました。今年以降に卒業予定の学生は約30名います。JISRプログラムでの留学生の受け入れは2024年まで延長されることが決まっています。

ゲストのイブラヒム・マーンさんはシリア東部のデリゾール出身で、2018年にJISRプログラム2期生として来日し、立命館アジア太平洋大学で経営管理を専攻後、日本で就職しています。制度開始から5年が経過したプログラム、当初彼らにとって難しかったことはどんなことか、良かったことはどんなことか、日本で教育の機会を得て思うことは何かなど、率直に語ってもらう機会となりました。

イブラヒム・マーンさん


故郷を襲った戦火 大学生だったイブラヒムさん

まずイブラヒムさんはご自身の背景から話し始めました。イブラヒムさんの故郷デリゾールは、7000年の歴史を持つシリア東部地域最大の街で、首都ダマスカスから車で4時間ほどです。ユーフラテス川に面した街は川にかかるつり橋が有名で、橋から若者たちが川に飛び込む姿は風物詩でした。

故郷での1枚 ユーフラテス河岸からデリゾール橋を臨む


2011年シリアで戦争が始まった時、アレッポ大学の学生だったイブラヒムさんは、チュニジアから中東各地に広がった革命のニュースを連日目にしていました。故郷デリゾールでは早くにデモが始まっていましたが、故郷の異変を感じたのは2012年の6月でした。大学の期末試験が終わり帰省する列車の中で、母親から「街中が砲撃されている。帰ってこないほうがいい」と電話がかかってきたのです。列車はデリゾール中心部に入ることができず、約20キロ手前で止まったままになりました。その場所から飛び回るヘリコプターや爆撃や火の手が見えたと言います。翌朝、ようやく市内に入ることができましたが、そこから15日間、デリゾールは食糧もない電気もない状態で包囲されました。市民は夜にこっそり物資を運ぶなどして生き延びました。

イブラヒムさんと家族はより安全なダマスカスに避難することを決めました。無事にバスがダマスカスに到着した直後に、イブラヒムさんたちの15分後に出発した別のバスが爆撃され乗客が亡くなるというニュースを耳にしました。逃れられたのは幸運だったとイブラヒムさんは言います。その後一度、大学のためにアレッポに戻りますが、戦況はそこでも悪化し、父親が働いていたアルジェリアに逃れました。

デリゾールの街はシンボルの橋も含め破壊されて壊滅的状態となり、学校や病院、電気などインフラも戻らないままです。イブラヒムさんを含め、シリア国民の半数が故郷を追われ、多くがトルコやレバノン、ヨルダンなど周辺諸国へ、一部は海を渡り、ヨーロッパへ逃れました。

2008年のユーフラテス川にかかるデリゾール橋 この橋も戦争で破壊された


シリアに残った人も、物資不足や激しいインフレで厳しい経済状況に置かれています。イブラヒムさんが懸念しているのが、シリアに残る子どもたちの教育です。2021年時点で250万人の子どもが教育を受けられていないという統計があります。戦闘や爆撃、ISなどの光景を目の当たりにした子ども達のメンタルへの影響は大きく、通常の生活にどう戻るのかは大きな課題です。


祖国を逃れた後、模索した学業に戻る道

イブラヒムさんが避難したアルジェリアでは、シリア人など外国人学生に高等教育の機会を与えないというルールができ、イブラヒムさんは学ぶことができず1年ほど働きました。

なんとか勉強を続けたいと、その後ヨルダンに移動し、ヨルダン大学で産業エンジニアリングを学びました。その分野では、より効率のよい製造のための改善方法など、日本式を学ぶことが多いのだそうです。そのため、来日前のイブラヒムさんの日本のイメージは、製造システム、工場、テレビでよく見た混雑した渋谷の交差点でした。

SNSで日本のJISRプログラムの留学生募集の情報を見たイブラヒムさんは応募を決めます。応募に際しては来日の動機を聞かれ、日本で修士課程を終えた後、どのようにシリアの平和構築や復興に貢献しようと考えているかなどの問いもありました。イブラヒムさんは、祖国に戻ったら、資源が豊富であるにもかかわらず、重視されてこなかったシリア東部で、製造システムの構築や工場建設、農業を効率的に産業化していくのに役立つ知識・体験をシリアに持ち帰ることができればと考えました。選考は10か月を要し、筆記テストや面接を経て、2018年6月に合格通知をもらいました。

当時スペインやイタリアの大学院からの受け入れも決まっていたというイブラヒムさん、日本に行く体験はユニークで、簡単ではないけれど特別な人生経験やキャリアになると考え、日本を選びました。


異世界の日本での生活がスタート

2018年10月にイブラヒムさんも含む約20人が来日しました。広島のJICAのセンターに1か月滞在しオリエンテーションなどを受け、日本の基礎知識や簡単な日本語を学ぶところから始まりました。その後はそれぞれが受け入れられた各地の大学に分かれました。初期の広島滞在は、平和の視点を学べるようにという意図もあり、留学生たちは広島の平和記念資料館を訪れたそうですが、シリアで戦火が続いていたため、イブラヒムさんは、よりシリアと関係づけて感じることが大きかったと言います。

大分にある大学に進んだイブラヒムさんですが、そこからが試練の始まりでした。突然異世界に放り込まれたようだったと言います。まったく理解できない言語、文化の中、知り合いもおらず、まるで子どもになったように感じ、孤独感を強く感じるスタートとなりました。

食事も慣れないものでした。大分で最初に朝食を食べようとレストランに行った時は、魚など典型的な日本食が並んでいました。シリアでは朝食は軽いものが多く、卵なら食べられると卵をとりましたが、割ってみてゆで卵ではなく、生卵だと気づきました。生卵を食べる文化を知らなかったイブラヒムさんは、1つだけゆで忘れたのだろうと思ったそうです。2つ目も生卵だと気づき、何を食べていいかわからなくなり、その日は飲み物だけ飲んで帰りました。その時期は大学が休みで、学生もおらず、聞ける人はいませんでした。最初の住まい探しなどは支援がありましたが、その後はすべてが手探りで留学生活が始まりました。来日時100キロだった体重は4か月で80キロに減りました。

生活費などは支援されていたものの、”シリア難民”として来日し、クレジットカードを作ることができない学生も多く、クレジットカードがないと携帯が買えず、携帯がないとクレジットカードも作れないという事態で、数年携帯を持てず不自由な思いをした学生もいたと言います。シリア人が一般の銀行では口座を開くことも簡単ではないそうです。


どんな支援があればよかったか

食事と言葉の問題が大きかったというイブラヒムさん。イブラヒムさんの行った立命館アジア太平洋大学は留学生も多く、英語で授業が行われていますが、特に地方の大学に行ったシリア人留学生たちはより苦労したのではないかとイブラヒムさんは話していました。コミュニケーションがうまくいかず、1年経っても友人ができないという悩みも、JISRプログラムの同期生から聞きました。

1期生の時は日本語の特別レッスンもほとんどなく大学院生活が始まった人もいました。イブラヒムさんは、大学の日本語のレッスンを受けましたが、全体として語学に関する支援がもっとあればよかったと言います。現在、語学レッスンに関しては改善され、1年をほぼ日本語の準備に充てるプログラムも組まれています。イブラヒムさんは、日本語の強化レッスンなど、溶け込むためのより集中した支援プログラムは不可欠だとしています。

多くのシリア人留学生が日本のことを十分に知らず、高い期待を抱いて日本にやってくるとイブラヒムさんは言います。先進国のイメージで、東京のような都会の、多くが英語を話す中で生活するのだと思っていたものが、実際は地方の大学に行き、英語が話せる人も十分にいない環境で隔離されるような暮らしとなり、溶け込むことは容易ではありませんでした。来日前のイメージとのギャップが大きかったとイブラヒムさんは話していました。

家族と共に来日した留学生は、配偶者が地方ですることがなく、気持ちがふさぎこみ帰国したがるというケースもありました。たとえシリア人留学生側が英語が話せても、日本社会に十分に対応できる人が少なく、留学生やその家族は地方で孤立しやすい状況でした。

イブラヒムさんの言葉の中で、特に考えさせられるものがありました。

「日本の今回の制度は難民状態の人を留学生として受け入れるとしていますが、来日してみると、まさに”留学生”で、”難民”としての支援制度のようなものはなかった」
「社会がどう見たいか次第で”留学生”になり、必要な時に”難民”になる」

学業が終わってもシリアは帰れる状態ではなく、日本での就職も苦労の一つだったとイブラヒムさんは言います。毎年、シリア人留学生の集まりが年2回ほど開催され、そこで就職活動などのガイダンスも行われていますが、学生の間に就職活動が始まる日本では、来日数か月で就職のことを考え始めなければならず、それも留学生にとって高いハードルです。

大学院生の就職が難しいのは日本人でも言えるかもしれませんが、今回の制度でやってきた多くのシリア人留学生は、戦争で学業から離れる時間があったため、30~40代と年齢が通常より上となり、日本語もあまりできないため、採用したがる企業は少なかったとイブラヒムさんは言います。就職口の紹介もありましたが十分でなく、ほとんどの学生が自力でやっていました。イブラヒムさんがある大手外資企業を受けた時には、内定直前まで行っても、シリア国籍のせいで受け入れは不可能だと告げられたこともありました。

学生生活が終われば、留学生として受けていた支援は一切なくなります。ビザも自力で取得しなくてはいけません。就職までを含めた長期展望の支援も求められます。支援制度で来日した100名以下のシリア人留学生に対して、もっとできることはあるのではないか、イブラヒムさんの話から参加者が感じたことです。


日本での経験からシリアの将来に望むこと

日本で学んだイブラヒムさんがいま気がかりなのが、教育やコミュニケーションの機会を失ったシリアの子どもたちのことです。イブラヒムさんは彼らのことを「失われた世代」として常に心に留めています。彼らは生まれた時や小さな頃からずっと困難の中で生きています。自分は危険な地域からなんとか出ることができ、別の国にたどりつき、学ぶ機会も得た幸運な一人だと表現するイブラヒムさん、逃げるためのお金も力もなく、何らかの理由でシリアに残らざるを得なかった人たちやその子どもたち、その教育は大きな課題だととらえています。

イブラヒムさんが、シリアに残る15歳の男の子に、携帯のショートメッセージでアラビア語で「おはよう」と書いた時に、その子は「文字で書かないで、ボイスメッセージにしてほしい。文字が読めないから」と言ってきたそうです。シリアはかつて中東諸国の中でも教育水準の高い国でした。教育を受けることのできなかった人たちはどんどん置き去りにされ、今後そうした人たちとどうコミュニケーションをとっていけばいいのか、国外に出たシリア人とどう連携していくのか、イブラヒムさんは私たちに投げかけました。

そうした人たちは自分の周りで何が起こっているのか、何が正しい情報かわからずにいるとイブラヒムさんは言います。日々停電を経験し、食べるものにも困る人たちにとって、将来設計は簡単ではありません。想像力、思考力も限られ、解決能力も低くなってしまうと、イブラヒムさんは懸念し、ギャップをどう埋め、信頼関係を再構築していくかに頭を悩ませています。教育や職業訓練などを実現し、小さな子どもたちから働きかけていければ、というのがイブラヒムさんの願いです。

大分県に留学したイブラヒムさんは、そこで日本の高齢者たちと出会いました。彼らの戦争体験や復興の経験をシリアの若い世代に伝え、役立てるようなことができないかと感じたそうです。知識や経験、技術は、それを必要とする国にとっては重要な鍵だとし、いつかそうした出会いのつなぎ役になることも、イブラヒムさんの夢の1つです。

アフガニスタン情勢の混迷や、ウクライナでの戦争などの影響で、日本に避難してきた人たちのニュースが増えた時期もありました。多くがすでに日本を離れ、第三国に移動したという報告もあります。十分な支援体制がなく、日本で将来の見通しを持てないことも理由の1つだと考えられます。シリア人留学生に対しても、その後の展望は、他の国で行われている支援ほどはっきりとしていません。

イブラヒムさんが語ってくれた経験には、私たちが考えなければいけないことがたくさん内包されているのではないでしょうか  


ムジャンマについて

ムジャンマは、アラビア語で「集まる場所」を意味します。シリアのために活動する人が、シリアを思って集まる場所という願いを込めています。「シリア人の一人も置き去りにしない」シリア和平ネットワークが、設立当初から抱える想いを実現するため、2021年から開始した招待制の意見交換会です。

ムジャンマでは、「シリアに関する何か」について、話題提供者が話します。講演会に終始せず、可能な限り参加者の自由な意見交換を設定しています。参加者の方に、自身の活動への具体的なヒントを持ち帰ってほしいと考えているためです。シリアに関する知識の深化・更新、新たな連携関係の構築、アドボカシーの展開。ムジャンマが、それらの「媒介」になればと願っています。

ムジャンマへの招待者は、組織・立場に関わらず、シリアに携わる方です。ムジャンマへの参加をご希望されます方は、シリア和平ネットワーク事務局(futsuki.kouta.22u★st.kyoto-u.ac.jp:★を@に変更してください)まで、ご連絡ください。

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